国際交流事業

第3回国際交流事業 (大連訪問) を終えて    仲井 サカエ

2005年8月

 わがくらぶの国際交流事業で、海外訪問するのも、今年春のサンフランシスコ、サクラメント両市訪問に続き、三度目となった。8月6日、大連は快晴であった。初めての中国、お隣の国だと言うのに、一度も行ったことが無い国への訪問である。
言語も「ニイハオ」「シェイシェイ」「サイチェン」。この3語以外は、全くダメな私たちを、出迎えてくださった、障害者連合会の方々、通訳をしてくださる遼寧師範大学の呉先生、三島食品の野口支社長、三島食品の卓越した日本語を話される若くて美人の王さん、精神病院の院長さん(女性)など、現地でお世話くださった方々は、みなさん、それぞれに仕事を持ちながら、一生懸命に対応してくださったという印象が強い。にも拘らず、障害がある方々と直接お話する機会は極めて少なく、というよりも障害者を見かけることが極めて少なかったということである。
 わずかに、比較的経度の、年齢も若い身体障害者を雇用している電子部品会社で、10人余り見かけたが、彼らはみんな、黙々と単純作業を辛抱強く頑張っていた。写真撮影も難しかったが、何とか一緒に写真に入ってもらえた。
 単純な機械に、何人もの障害者が関わって、目で透かして見ながら検品している。日本では、はるか昔にオートメ化していることが、この国では、今なお、有り余る労働力によって、支えられているのである。障害者の賃金は大体1ヶ月日本円にして1万円程度のようであった。さらに、能力に応じて給料がアップするようなシステムにもなっていた。 
  障害がある人を町で見かけることは、空港以外では滞在中の4日間、皆無であった。その理由の一つとして考えられるのは、道路の信号が無いに等しいと言うことである。人々は決して止まることのない車の間を縫って轢かれないように気をつけながら渡るのである。その他にも、建物はいたるところでバリアだらけ。便器に到達するためのステップも30~40センチはある。ホテル以外はトイレに紙はまずない。
  車いすの人を見かけたのは、知的障害者の運動会全国大会で、彼らを見たのと、私たちの世話について、采配しておられる障害者連合会の車いすの理事長さんだけ。あとは、市の中心にある中山広場での夜、行われた身体障害者の芸能大会のとき、出演された聴覚障害者や、肢体、視覚などの障害者と、その場に車いすでやってきた若い裕福そうな一人の女性だけであった。彼女は私たちの目の前で、車いすいに乗っていることを自慢するかのように前輪キャスターを上げて(ウイリー)見せた。私たちが4日間滞在している間に見かけた第2番目の車いすの人であり、帰るとき空港で見かけた車いすの人の3人でおしまいだった。
  おそらく、バリアが余りに多い上に、車いすそのものも、不足しているのだろうか・・・
 私たちが披露した、健常者と一緒に踊る車いすダンスは、市民のみなさんの目にも初めてのようで、演技終了と同時に、数千人の見物客の何十人かが、私たちを目指して次々とそばにやってきて、取り囲んでしまった。彼らに敵対するような眼は見えず、一瞬の後、「謝謝」「謝謝」の声と笑顔と握手がそこここに。
  あっという間に、日中友好の波は起き、感動の夜となった。熱い胸に大通りを吹き抜けてくる夜風が心地よかった。 
  すでに前々から決められていたプログラムの中に、わざわざ私たちのために出番を作ってくださったのは、周りの誰もが一目置く、障害者連合会の車いすの李理事長だった。50打半ばかと思われる彼は、市や人民政府にも通じる実力者なのだと聞いた。
  その夜だけで3回の出演チャンスを頂き、広島が生んだ「広島車いすだんすくらぶのダンス」を見ていただくことができた。
  4日間を通して、見て感じたことは、わが国の発展と比べて、同じ戦後を歩んだ国同士でありながら、余りにかけ離れすぎていることを目の当たりに実感したことである。何か、お手伝いをしなければ・・・という気持ちにさせられる旅であった。町のあちこちに、旧日本軍や、満鉄の栄華を極めた、堅牢で、重厚、華麗な、見ればすぐにそれと分かるすばらしい建物が、激動の歴史おの流れにもめげず悠然と立っていた。 そして今もなおしっかりと生き続けていたのだった。時間にゆとりも無く、これらの建物をゆっくりと探索する時間が持てなかったことは残念至極であった。
 帰国後、現地の方から「あなた方が、障害者をとても大事に扱っておられるのを見て感動した。
この国(中国)の人々が、みんな、あなたがたのように優しい心をもっていれば、この国も平和な社会になるのでしょうけどねえ」と言うお便りをいただいた。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉が私の脳裏をかすめた。
広島訪問を希望しておられる李理事長には、なんとかして、広島に来ていただきたいと思う。どんな方法があるか、真剣に考えてみたい。
 有り余る労働力にかける日本企業の進出は目覚しく、いまや、二桁成長を遂げつつある中国経済の一翼を支えていると言えるのだろう。しかし、未だ、日中の経済格差は大きく、向こうから、日本に来ることは容易なことではない。あと、何年したら、中国の庶民の方々が、わが国を気軽に訪れることができるのだろうか・・・
 日本がかつて、海外旅行が自由化された頃の事を思い出す。自由化されたからといって、おいそれと出かけるわけにはいかなかった40年も昔のあの頃を・・・・
 ともあれ、大連との交流は始まったばかりである。いつものことながら、これからが私たちに託された使命を完成していく道程である。
  もちろん、むこうで出会った方々は、同じ肌をもち、物事を真剣に執り行って下さる日本人の感覚に近い方ばかりで、特別な違和感も感じることはなかった。8月9日帰国。広島空港から(1時間4~50分)一飛びで行ける近さにある。もちろん、参加者は一様に、再訪を期待されました。
 今後、両市の親善交流がさらに進展していくように、私たちにできることから始めていきたいと思っています。
  今回の旅も、重度障害者とともに、大きな社会参加が達成され、充実した時間を過ごすことが出来ましたことを喜びとすると同時に、広島県、広島市、当くらぶのサポーターの皆様に心より精一杯の感謝を申し上げます。